文芸日女道

ある研究者のカフェに来る人々の交流のお話(8)

お花見カフェでの話

今年は三月末から四月初めにかけて冷え込む日が多かったために、桜の花がとても長く咲いている。4月のカフェはいつものセミナー室を離れ、飲食店の個室でのランチ会を開催した。当日が雨天だったため、外での散策が出来なかったことは残念だったが、食後にスマホの自撮り機能を使って桜の木と記念撮影も行えた。

今回のランチの目玉は、鯛茶潰けだった。最初はゴマダレでタイの薄造りを味わい、次はタレのついた刺身をご飯の上にのせて鯛丼に、最後は鯛出汁を茶碗に注いでお茶潰けにして味わうという、逸品で三度美味しいメニューである。

この日はランチをしながらあれこれ話していたが、ふとした雑談からも、「生き方」や「見送り」といった話題に繋がる。文字にすると重く、神妙な食事会になっていると思われてしまうかもしれないが、いつものように定期的に笑いが起きる。世間一般には「暗い」「悲しい」と思われるような話題でも、話し手の話術により、いつの間にか大爆笑や励まし合いの効果等が生じ、鯛茶潰けも顔負けの展開を見せている。カフェ参加者の話の料理の仕方は実に巧みで、主催者の私が毎回勉強をさせていただいている。

今月は食事会で一番印象に残っている「ブティック・テルコ」のエピソードをご紹介したい。

「テルコ」はBさんのお母さんの名前である。「ブティック・テルコ」の話のきっかけは、Bさんが「私はモノをあまり貯めないようにしているんです。うちのお母ちゃんはいつか使えると思うと捨てられない人でね。結婚してからも定期的に片づけに行ってたけど、自分で自分のセーラー服を捨てることになったんですわ」と話されたことだった。

話の流れを簡単に説明すると、食事会の日が入学式であったことから、PTAが話題に上った。そしてPTAといえば、学校のバザー。バザーといえば家に眠っている様々な物が出品される機会で、今でいう「断捨離」の機会だったかも、という話の中でBさんの発言がた。Bさんの「セーラー服」というキーワードに、全員が「え?なんで?」となり、そこからBさんとお母さんのテルコさんとの思い出を聞く機会を頂いた。

テルコさんは保険の外交員で、地域の人々の仕事や家族イベントに密着する形で営業を展開されていたそうである。たとえば、保険の契約者が洋服店の店主であれば顧客となって衣類を揃え、娘さんの結婚報告を聞いた時には必ず御祝儀を包み、新婚さん向けの保険の契約を獲得していたという。単身で動く営業レディであったテルコさんは、服装には一段と気を使い、気に入った服があれば必ず色違いもあるだけ購入し、服に合わせた靴も揃えるほどの徹底ぶりだったそうだ。

地域の人たちとは普段から飲み会やゴルフを通じての交流も盛んで、趣味ではダンスをしていた。そのためBさんの実家にはたくさんの内祝いやお歳暮やサンプル品が届くが、テルコさんは家のあらゆるスペースをフル活用して、すべての品を保管されていた。Bさんが結婚を機に実家を離れた後、テルコさんはお父さんを見送り、仕事を引退した後は趣味の時間を堪能されていたという。その一方で、テルコさんは外交員時代の洋服等を捨てる気もなかったので、Bさんが実家を何度片付けても、モノが増える一方だったそうだ。100足近い靴の箱の山を見てBさんは「こんなにたくさんの靴、お母ちゃんはムカデかいな」と諭したこともあるという。そしてBさんがある日、大掃除で普段はなかなか開けない押し入れを片付けようとしたら、押し入れからBさんのセーラー服が出てきたそうだ。

参加者からは「Bさんの大事な思い出だから、お母さんが取っておいたんじゃないの」という意見が出たが、Bさんは「いいえ、そうじゃないんですよ。必死で物をかき分けていたら何かが引っかかっていて、引っ張り出してみたら私のセーラー服だったんです。箱に入っているとかじゃないからね」と身振り手振りで応えられたので、私たちはBさんの姿を想像して笑ってしまった。

Bさんのお母さんは「ピンピンコロリ」を絵にかいたような人で、90代になっても元気で、心不全で亡くなる前日も自転車で町内を走って、近所の人と交流されていたそうだ。

Bさんは「お母ちゃんが死んだとき、そりゃぁもうたくさんの服と靴があったんですよ。若い頃に着てた時代遅れの服でも『まだ着れる』って残すんですよ。お母ちゃんの体型の変化に合わせて、7号から13号までありましたわ」と続けられた。

テルコさんが亡くなった後、Bさんならではの発想で、「ブティック・テルコ」が開催された。

まずは通信販売で業務用回転式ハンガーラックを10台以上購入した。そして傷んでいない服を、スーツ、ゴルフウェア、ダンスウェアというようにジャンル別に仕分けた後、サイズ別にハンガーラックに吊るし。近くには布で仕切った試着スペースも設けた。靴もジャンル別に整理し、物置に眠っていたお歳暮や内祝いの品も発掘した。そしてテルコさんに馴染みがある人々を家に招き、「今日はブティック・テルコを開催します。サイズが合うものがありましたら、是非お持ち帰りください」と呼びかけたそうだ。試着している人に「色違いもありますよ」「もう一っ上のサイズにしますか」等と声をかけ、時にはお茶飲み休憩も挟みながら一日を過ごしたところ、集まった人は一人当たり蜜柑箱一箱程度の思い出を持ち帰ったそうである。

Bさんは悲しいことや辛いことがあっても、その原因となった出来事に向き合い、Bさんにしかできない行動の原動力に変えていく人だと私は感じている。

Bさんは中皮腫を患った御主人を見送った後には、「自分はアスベストや中皮腫を忘れることはできないだろう」と感じ、アスベストの被害者の会の集会所の洗濯ボランティアを始めたという。「運営は男の人だけだったから、洗濯の発想がなくてね。トイレのタオルが黒くなりそうだったから、まず自分にできることをしたんですよ」とBさんは話すが、今では会の世話人となって、活動の中心に立って街頭演説や治験の拡大の要望書の提出もしている。

大事な家族を見送った後、実家を整理するケースは多い。整理に追われる中で、悲しみや喪失感も整理できる時もあるだろう。しかし、現実を受け入れることが困難な時もあるだろう。そんな時は、「ブティック・テルコ」を思い出してほしい。故人を慕う人と時間を共有し、故人の逸話をしながら献杯する場を設けてみてはどうだろうか。

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