縮小社会 第7号 入澤仁美医学博士追悼記念号

SNSによる精子提供に関する入澤さんの講演を聞いて

谷 誠
(元京都大学)

1 はじめに

入澤仁美さんは、専門の研究活動に熱心に取り組みながら、より広い活動を展開された。縮小社会研究会の生物多様性分科会におけるオンラインでの研究会や会議でのお付き合いだけではあったが、明確な信念に基づいて活動された人との強い印象が残っている。

医学にはまったくしろうとである筆者にとっても、医療に関するさまざまな倫理的な問題が現代社会においてきわめて重要な研究課題であることは認識できる。その中で最初に入澤さんの仕事を知ったのは、「縮小社会」の第3号に掲載された、岐阜県の農村地帯の医院に通う高齢者インタビューを集めた長文の取材報告であった。「終わりに」書かれている内容を要約する。

地域密着型のかかりつけ医である荒川迪生医師の診療を受ける14名の人は「どの型の生き方も尊厳があふれていた」。そして、「ロースクール出身で、当時は法律の知識と判例の知識ばかりに偏っていた私に、臨床を知る機会を与えて下さった」とし、「研究者としての覚悟を決める大きな契機」となった。

研究論文ではないが、彼女が自らの専門研究を進めるうえでの社会との関係の基盤として重要だと筆者は考える。
認知症やがん患者の心のケアに「ベリーダンス」を取り入れるという活動は新聞でも報道されたが(産経新聞、2016)、終末期患者の「身の置きどころがない」気持ちへの寄り添いに関する研究(入澤ら、2019)なども重要な活動である。老いや病気という状況に置かれた人に対して、法律や医療倫理から取り組むだけではない、もっと広い視野からの暖かい関係性を作り出すことを彼女は目指していたのだろう。

本稿は、彼女が取り組んでいた精子提供に関する研究について、Youtubeで公開されている報告を視聴した感想を述べさせていただくことにした(柘植あづみの生命倫理チャンネル、2021)。ここでは、研究会主催者の明治学院大学の柘植あづみ先生の許可を得て、彼女の講演パワーポイントを掲載する。筆者は完全なしろうとなので偏った意見になるかもしれないが、追悼文とさせていただきたい。

2 講演概要

男性不妊に悩む夫婦やレズビアンカップルなと、非配偶者間人工授精(AIDと略記する)を通じて子供を持とうとしている人(クライアント)が、最近、SNSを通じて精子提供を受ける事例が増えている。本講演では、それによって生じるさまざまな問題点を、精子提供者(ドナー)へのインタビューなどを基に論じている。

不妊に関する対策は、かつては血縁から養子を迎えることが多かったが、戦後、配偶者以外の第三者の精子提供によるAIDが始まった。これによって、夫婦の不妊治療を超えて希望者に子を授ける行為も生じてきた。さらにSNSを通じることでAIDが拡大してきており、その理由としては、ドナー側は人助け感覚で参加でき、クライアント側はドナーの身体的特徴や学歴などが選びやすいなど、互いの利点が挙げられる。

SNSでの精子提供ドナー7名へのインタビューの概要は以下の通りである。ボランティア精神の人が大半、全員性病•HIV検査なども受け、交通費•郵送費のみで実質無料提供している。シリンジによる提供だけではなく、クライアントの依頼で性交渉も可とする人が5名いた。中には100件を超える提供をしている人もいた。出生した子供が出自を知りたい希望は当然のこととして理解し、面会希望があれば受け入れる人が大半だった。クライアントが収入不安定、子育てのビジョンなし、出生時の情報報告をしない、などと判断した場合は、精子提供を断っていた。

さらに、AIDで生まれた人3名に対し、出自の情報として何を知りたいか、インタビューした。彼らは、すでに60歳の人もいるが、ドナーの個人情報を知りたいのではなく、ドナーとなった経緯、人格、身体的特徴などを知りたいとのことであった。

以上のインタビュー調査を基にした考察として、SNSを通じることでAIDへのハードルが下がったことから増加するAIDが抱える問題点として、SNSを利用すること特有のリスク、クライアントが直面する困難、出自を知る権利、その他の倫理的問題などが、議論されている。詳しくは彼女の作成したスライドがわかりやすいので、参照いただきたい。

筆者は、その中で、優れた性質を得る欲求に含まれる優生学的問題、病院に偽りの申告をして妊娠を求める詐欺的行為、生まれてくる子供の権利の問題がとりわけ重大だと感じた。こうしたさまざまな問題があるにもかかわらず、AIDが拡大していること、これをどのように考えたらいいのだろうか。

入澤さんは、倫理的には問題が多いからといって否定するのではなく、「子を得たい」との人間にとっての基盤的な希望をそのままあたたかい気持ちで受け止めたうえで、より問題の少ない現実的方策を探ろうとしていた、と筆者には感じられた。

3 考察

医療は、死を免れることは不可能だとの認識を共有している現代においては、可能な限り死の訪れを引き延ばすことが、医療の目的として優先される傾向がある。しかし、その生命の限界性を前提としたうえでも、「より明るく生きることができるような医療」を、入澤さんは多様な活動を通じて追及してきたように、筆者は受け止めている。

「子を持つこと」もまた、人が明るく生きることと密接に関係している。その意昧で、さまざまなリスクがあっても、AIDを希望するクライアントがいて精子を提供するドナーがいる、そういう事実は、社会の中で受け入れるべきと考えられる。入澤さんは、これを肯定的に受け止めたうえで、自然に放置するのではなく、より良い方策を見いだす研究に取り組んだ。関係する人々へのインタビューを行うことなどを通じて、さまざまな問題点をきちんと数え上げること、それなくしては、改善策は見いだせない。明確な研究方法論を彼女は持っていたのだろう。

入澤さんは、ここで取り上げたAIDを含む生殖補助医療の問題点を深く広く研究している(入澤、2016;入澤・柘植、2021)。日本では、伝統的家族を理想化する考えに固執する観点から、こうした生殖補助医療にかかわる法整備の遅れもある。この点は欧米に比べた問題点として重要だろう。

これを改善するためには、入澤さんの研究展開は非常に貴重な研究であった。

ところで現代は、人間の歴史の中で、拡大し続けてきた人間活動が地球の資源・環境の壁にぶちあたり、押し戻されはじめた時期として位置づけられる。そのため、将来の社会をどのように維持してゆくかが大きな課題となっている。次世代を担う子供を残し、彼らが明るく生きられるようにするには、どうしたらいいのか。入澤さんの研究は、こうした世代を超えた社会継続の観点から、縮小社会研究会をめさすところとのつながりが大きい、と筆者は考えている。

4 おわりに

筆者は、入澤さんの発表などを聞くまでは、生殖補助医療にほとんど関心がなかった。しかし、彼女の発表を聞くことにより、さまざまな欲求がうずまいている現代において、「子を持つ欲求」に対して多様な方法が準備されていることを肯定的に受け入れるべきこと、そのうえで問題点をきちんと認識してこれを改善するようにもってゆくべきことを学ぶことができた。そうでないと、医学の歯止めのない発展によって「子を持つ欲求」が野放図に広がり、倫理的な問題、人権問題がかえって拡大する危険性も大きい。

医学の発展によって欲求が拡大してゆくことで、今後、寿命がさらに延び、生殖補助医療が拡大するのかもしれない。その流れのなかにあって、そこに含まれる問題点を深く研究して熟知している入澤さんは、同時に「明るく生きる」ことを重視して多様な活動を展開してきた貴重な人材であった。

筆者としては、その業績を高く評価するとともに、遺志が引き継がれることを祈念したい。また、病魔に襲われた短い人生ではあったが、彼女は懸命に広い活動にチャレンジし、明るく生きたのだということ、これは筆者の確信するところである。

謝辞

入澤仁美さんの講演スライドの掲載を許可してくださった、明治学院大学社会学部社会学科の柘植あづみ先生に厚くお礼申し上げます。

引用文献
入澤仁美:生殖補助医療が抱える新たな倫理問題、第36回縮小社会研究会、2016。
http://shukusho.org/data/36irisawa.pdf(2022/10/21閲覧)
入澤仁美:農村地域におけるかかりつけ医と通院患者の交流の実際、縮小社会3、1-118、2018。
入澤仁美・小林弘幸・櫻井順子・唐沢沙織・川崎志保理:終末期患者の『身の置き所がない』状態に対する倫理的課題、臨床倫理7、44-51、2019。
入澤仁美・柘植あづみ:精子を提供する理由:SNSドナーヘのインタビュー調査、国際ジェンダー学会誌19、132-145、2021。
産経WEST:ベリーダンスで心のケア 認知症やがん患者、即興で踊れる手軽さと芸術による癒やしの力に着目、2016。https://www.sankei.com/article/20161022-2DT4E3K3DBKQRLHZBSASNGH6LA/(2022/10/20閲覧)
柘植あづみの生命倫理チャンネル:SNSによる精子提供から考える日本のAIDの今後の課題(講師:入澤仁美さん)、2021。https://www.youtube.com/watch?v=VB2BQ5KOKB8(2022/10/21閲覧)

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