浜田 道代
(名古屋大学名誉教授)
1 はじめに
入澤仁美さんが37年の人生を駆け抜けていってしまったことを深く嘆き悲しんでいる者の一人として、本誌の「入澤仁美博士追悼特集号」に追悼文を寄稿する機会をいただいたことに、まずは御礼を申し上げたい。入澤さんに私が巡り逢ったのは、彼女が名古屋大学法科大学院で学んでいたときに、私が法科大学院長で、企業法関係の授業を担当していたというご縁による。本誌の読者の皆様は、本誌になぜ私のような経歴の者が突如登場するのかと、訝れるかもしれない。一方、私の方では、「縮小社会研究会」について、入澤さんから度々話を聞いていた。入澤さんは、この研究会に所属して会員の皆様と活発に議論し、研究活動を共にできるのを意義深いことと捉え、とても大切にしていた。ゆえに、「入澤仁美博士追悼特集号」が本誌において刊行されることは、今は天国にいる入澤さんにとって、何よりも嬉しいことであるに違いない。
2 アカハラ克服のための共闘の思い出
私と入澤さんは名大で出会ったが、名大を去ったのは、私の方が一足先になった。入澤さんが在学中の2009年春に、突然、私は公正取引委員会委員に就任することとなり、入澤さんたちの卒業を見届けることなく、名大を離れた。しかしその後も、入澤さんを始め、何人かの学生との交流は続いた。入澤さんが上京した機会などに食事会を開いては、楽しいおしゃべりを重ねた。入澤さんは自身の大病を契機として、今後は医学の道を歩んで研究者を目指すことにしたという。私は彼女の人生への真摯な姿勢に感銘を受け、精一杯の声援を送り続けた。
入澤さんが私にとって、数多い教え子の中でも際だって思い入れの強い存在となったのは、彼女が医学研究の道を歩み始めた時期に辛い事件に遭遇し、私も彼女の傍らでその辛さをひしひし実感しつつ、かつ強い怒りを覚えつつ、一緒に困難を乗り越えるという、特別の体験をしたからであった。
入澤さんは、発想力が頭抜けて豊かで、いつも前を向いてエネルギッシュに活動を広げていくことができる、飛びっ切りの頑張り屋さんである。明るく溌剌としていて、しかも大変美しく、人間性においても魅入られることの多い素晴らしい女性であるのに、あるとき、少し様子がおかしい、と私が感じたことがあった。その訳を尋ねていくうちに、入澤さんが新たに歩み出したばかりの医学研究への道を塞ぐ大きな障害物にぶち当たり、苦しみ藻掻き悩み続けていることが分かった。話を聞けば聞くほど、それはセクシャル・ハラスメント的要素が混じったアカデミック・ハラスメントではないかと、私は疑うに至った。
大学行政におけるこの種の問題に詳しい知人に相談したところ、彼も一緒になって事実関係の調査に乗り出してくれた。私からも彼からも、入澤さんに対して質問メールが次々と飛んだ。入澤さんも事実関係の報告メールを、できる限り客観的な文章に取り纏めつつ、我々に返してくれた。3人とも幾晩も徹夜しかねない勢いで、事実関係の究明と問題点の摘出に努めた結果、次のような事実が分かってきた。
A大学に所属するB教授(既婚男性、現在はA大学を定年退職)は、入澤さんを自分の研究チームに熱心に勧誘した。研究チームに迎え入れられた入澤さんは、B教授の科研のテーマで、活発に研究活動を展開するようになった。B教授は海外での会議に入澤さんを同行させた折りなどに、入澤さんが決して望まぬ形で親交を深めようとし、入澤さんを困惑させた。一方、B教授の研究室では、研究生であるCさん(既婚女性)が、B教授の私設秘書のような役割を担っていた。CさんはB教授のメールを覗いて、B教授が入澤さんに多大な関心を抱いていることを感づき、それに反発して、匿名で、B教授のメールアドレスを使って、入澤さんに脅迫メールを送るようになった。誰かにつきまとわれていることに恐怖心を抱いた入澤さんは、警察に相談した。警察がB教授に電話し、B教授が近くにいたCさんに電話を代わったことから、これら脅迫メールの発信人がCさんであることが、入澤さんにも判明した。
この脅迫メール事件が生じたことを契機に、B教授は手のひらを返して、入澤さんを研究チームから放逐した。B教授のこのような言動は、医学研究を目指していた入澤さんの将来への希望を打ち砕き、脅迫メールで傷ついていた入澤さんの心を、さらに奈落の底へと突き落とした。
以上の事実が分かってきたことから、私も私の知人も、これはセクシャル・ハラスメント的要素が混じったアカデミック・ハラスメントであることを確信するに至った。ただし、以上の調査だけで最終的な結論を下したのでは、紛争当事者の一方の言い分しか聞いていないことになる。そこで私は、当該教授の言い分も聞くべきであろうと思い立った。A大学の事務局を通じてB教授に面会を申し込み、事務局と打合わせた日時に合わせて、新幹線とタクシーを乗り継いでA大学へ出向き、A大学の事務局の方と一緒に事務局の応接室で、B教授の来室を待った。待てど暮らせど、B教授は姿を現さない。それどころかB教授は、弁護士を立てて私に対応してくるようになり、その弁護士はといえば、私を面会強要罪で刑事告発するという脅しの内容証明郵便まで私の自宅に速達で送りつけてきた。このような悪意に満ちた攻撃を受けて、私も初めて、入澤さんがこれまで堪え忍ばなければならなかった苦痛の片鱗を実体験できた気分になった。若くて意欲も能力もある女性が、志を抱いて医学研究の道を歩み始めたときに、このような、セクシャル・ハラスメント的要素が混じったアカデミック・ハラスメントに遭うことが、どれほどの苦しみを彼女に与えるか。彼女の将来への希望をどれほど無残に打ち砕くのか。当の教授には想像すら及んでいなかったのであろう。
このアカハラ問題を解決する方法として、私は、調べ上げた事実関係をできる限り客観的に記した手紙を、入澤さんの周りの研究者の方々に送ることにした。この手紙には、私がB教授側からの言い分を聞くことができなかった理由も記しておいた。もしもB教授や彼の弁護士が、この手紙について何か文句を言って寄こそうものなら、裁判で徹底的に争うことも視野に入れていた。入澤さんに対しては、宛先を書いた封筒を用意して私に送るよう依頼した。ほどなくして、封筒が一杯詰まった段ボール箱が私の自宅に届いた。開梱して中を見ると、全ての封筒の宛先は、水茎の跡も麗しい毛筆で書かれていた。入澤さんのお祖母様が、愛する孫娘を心配しつつ、達筆の毛筆で、一つ一つの宛先を心を込めて丁寧に書いて下さったとのことであった。私はそれらの封筒に、私の署名入りの手紙を入れ、一斉に投函した。そのうちの幾つかは「縮小社会研究会」所属の何人かの皆様に届いたのではないかと思う。
私は、反応を待った。しばらくして、入澤さんからは、廻りの研究者と一緒に研究を続けるのに支障を感じなくてすむようになったという嬉しい知らせが届いた。入澤さんは活き活きと研究に取り組んでいる様子をメールで知らせてきたり、研究成果を掲載した論稿や記事などを次々と私の自宅に送ってきたりした。入澤さんの研究生活がこうして落ち着きを取り戻してきた頃、アカハラ問題が実質的には解決したらしいことを二人で祝う食事会を計画し、入澤さんが名古屋にやって来た。
そのときに、私は入澤さんから、乳癌の話を始めて聞いた。
3 医学研究と闘病の両立を目指して
名古屋大学のキャンパスを二人で歩きながら、乳癌の話を耳にしたとき、私は咄嵯には、返す言葉も見つからなかった。その少し前に私は、アメリカのハーバード・ロー・スクール在学中に最も親しくなったポルトガル人の若い友人を、乳癌で失ったばかりであった。若くて有能な女性を襲う乳癌の恐ろしさが身に染みたばかりであった。入澤さんまでが乳癌に侵されたとは・・・・。私は、一息おいて気持ちを落ち着かせてからようやく、医学の進歩のおかげで今では癌は治る病気になっているのだからと、入澤さんを励ました。私の元指導生である中国人の学者は、日本留学中と、帰国後に母校で教鞭を執りだしてからの2度までも、別々の癌に冒されたけれども、2度とも無事に癌を克服し、今も元気に活躍していることなどを話題にしたりした。
このときの食事会が、入澤さんと直接に会う最後の機会になってしまった。しかしメールのおかげで、その後も度々入澤さんと連絡を取り合うことができた。
入澤さんは、命を削らんばかりにして、それまでにも増して真剣に研究に取り組んだ。博士論文の執筆を始め、多方面に亘る研究がすこぶる順調に進んだ。体の方はそうではなかった。2020年の夏に入澤さんが研究会の案内を私にもくれたときには、オンライン研究会であったため、私も旅先ではあったがそれに参加でき、いつもと変わらず美しい入澤さんの溌剌とした姿を画面越しに見ることができたのであったが、9月に入澤さんから受け取ったメールには、医者から年越しは難しいかもしれないと告げられていることが綴られていた。
医者の予想を超えて、入澤さんはそれから2022年1月の37歳の誕生日を過ぎるところまで生き延びたことになる。その間に、すさまじいほどの研究成果を上げた。もっとも、その間の闘病生活は壮絶を極めた。入澤さんは、抗がん剤、放射線治療、手術、リハビリ、生検、妊卒性の温存、在宅医療、緩和ケア・・・・と、がん患者が経験するかもしれない治療はすべて経験した。2020年末の生命倫理学会では、研究者としてだけでなく、末期がん患者として「家族と病気とどう向き合うのか」についての話題を提供したりもした。
4 命尽きるまで ―入澤さんとのメール往復文からの抜粋―
2020年10月に、「ある程度効果がある」という治療がすべてネガティブとなり、入澤さんは「全身癌」の告知を受けた。標準治療はすべて終わってしまった。その事態に、入澤さんはどのように対処したか。
2021年正月に神戸大学付属病院の腫瘍・血液内科病棟から送られてきたメールには、次の文章が綴られていた。
標準治療が終わってしまったので「治療がない」状態となり、「新薬の実験的投与」に賭けてみるしかなくなったのですが、運よく「標準治療が全て終わった手術不能進行固形がん患者」を対象とした治験の、「tim3抗体薬とニボルマブ(オプシーボ)の併用投与枠」に入ることができました。
この治験は「初めての人体投与の実験」なので、1相治験です。薬の効果を確認するのではなく、「人体に継続投与しても安全か」という副作用の確認の治験です。そのため、被験者全員が、量の違いはありますが、新薬単薬もしくは新薬とオプシーボの投与を受けることになります。
私は新薬の投与が多い枠(予定では8ミリから1600ミリまでの新薬投与の枠があり、私は1200ミリの枠)で、「これはもし癌に効く新薬だったとしても、多すぎるだろう(笑)」と一瞬ためらいましたが、神様が「頑張ってて、面白いな」と思って延命のチャンスをくれたりするのではないかと思い、日本で3名の枠に入れることも貴重な縁なので、運命を感じて参加しました。
まぁこの治験が私の癌を止めることができなかったとしても、治療法のないトリプルネガティブ乳癌の新薬開発に協力できるという点でも参加の意昧はとても大きいと思っています。
一回の採血が100ミリ以上、1月内に2回の生検(それも内蔵組織を6本とるという異例の侵襲性)という治験の内容から、なかなか治験に耐えられる体力の患者が見つからなかったようですが、誰かが被験者になって安全性を証明しないと新薬開発は進みませんからね。
ただ、治験では「どのような副作用が出るか分からないので、投薬から最低4週間は入院」という規定があり(この治験、実際に何人かがお亡くなりになっているようです)、コロナ禍での入院で家族との面会すら禁止をされてしまっています。入院してから、「飛び降り防止で分厚い窓が開かない部屋」にいるので、外の天候の音を感じることもできず、なんだか季節と時間の推移を感じることができない生活をしています。
入澤さんはこうして、聞くだに目眩がしそうな検査漬けの生活に耐える傍ら、検査の合間には、入院しているのか仕事をもって籠もっているのか分からないほど仕事に打ち込んで、命の炎を燃やし続けた。2021年正月のこのメールで、入澤さんは、4月から順天堂大学の助教になることも知らせてくれた。癌の関係で非常勤となってしまったが、「臨床倫理」の定期授業の担当となり、そのためには「生きる」しかないという決意も、私に伝えてくれた。
世間はコロナで自粛モードですが、私はコロナのおかげで旧年は「リモート研究」の形でセミナーの開催や調査もすることができました。いろいろなことを「不幸中の幸い」に転換させた一年だったので、今年も前向きに頑張りたいと思います。
2021年2月26日に、入澤さんは、「生殖補助医療の在り方を考える議員連盟」の総会(ヒアリング)に招かれて、「SNSを利用したプライバーとの精子提供の実際と今後の課題」という7分間の話をした。同時配信されたユーチューブで、私も入澤さんのプレゼンを視聴した。
その前日には、入澤さんから次のメールが届いていた。
12月16日から開始出来た神戸大学付属病院での治験も癌の増悪によりもう終了してしまいました。
癌の思いもよらない急速化増悪で、今は1週間おきに状態が悪化しているので、もう抗がん剤は命を縮めるだけだと言われてしまい、今は内服の抗がん剤での増悪の速度を抑えられないかを図っていました。
それと同時に緩和ケアを受けてできるだけ痛みを取りながら、日々生きるために闘っている状態です。
今日も病院でしたが、もう直立では立てませんので車椅子でした…緩和の薬も限界まで増やしていますが、これより多くなるとホスピスだそうです。
今日が月曜日に撮ったPET検査の結果の分かる日でしたが、肝臓と肺と脳と胸骨だけだった癌は、胸膜、腹膜、リンパ節、腰椎にも広がってました。肝臓と肺は、添付の画像のようになっています…胸腹部の影が全て癌です。肝臓が機能を低下させながらも、生命維持のために頑張ってくれているのが不思議なくらいです。
担当医は検査結果と私の様子を見て「正直、あと1ヶ月後はもう危ないかな」、「内服薬は効いてないね」と言ってました。
本当はもうここで治療を終了してしまう段階だそうですが、一日でも長く講演依頼などを受けたいのと、痛みを和らげるためにも癌の総量を少しでも減らして欲しいので、来週から点滴型の抗がん剤に移行したいと頼み込みました。かなり渋られましたが、1時間以上話し合って、なんとか引き受けてくれました。
私は今月からは、治療のため休んでももう余命は伸びないので、今できることをできる限りすることに決めています。
明日の話題提供も、声をかけて下さった柘植先生が、「この研究をしているのは日本で入澤先生しか居ないから、ちゃんと伝えて欲しい」と依頼をして下さって、法整備に寄与できるならば是非!と引き受けた次第です。
むしろ辞退をしたまま命が尽きたら、後悔しかない気がしていて・・・。だから明日もモルヒネを使って頑張ります!
ユーチュープで入澤さんのフレゼン動画を視聴した後、私は次のメールを入澤さんに送った。
あなたのプレゼンは、圧倒的な迫力があり、とても引きつけられる内容でした。たった7分の間によくぞこれだけのことを盛り込まれたと感心しました。そのうえ、あなたも生き生きとしていらっしゃって、立ち上がることさえ難しい状況にあるとは想像もできませんでした。
あなたはまだ、神様から託された使命の一部を果たし始めたところですよ。これを完遂させるべく、是非是非さらにしっかり取り組んで行かれますよう、お祈りしています。
入澤さんからその日のうちに、次のメールが返ってきた。
浜田先生
見てくださったのですね! ありがとうございます。モルヒネとヘッドセットで、何とか呼吸も腰椎も持ちこたえました。
野田聖子議員は精子バンクVS商業的配偶子ビジネスに反対する研究者のバトルというようなものを期待して、私たちを呼んでいたようですが、私たちが考える「バンクばかりを厳しく規制しても、アンダーグラウンドの個人取引が進むだけ」という警鐘は鳴らせましたでしょうか。やはり今は苦しくて、ベッドで呻いていました。頓服が効いてスマホを確認したら、先生のメールが来ていて嬉しかったです。
出自を知る権利については、研究ブームが去ってしまっていて、今バンクやSNSの精子提供や生殖ツーリズムでの卵子提供といった、現代社会ならでは問題を研究している研究者は私以外にいません。
私が死んでしまったら、せっかく集めた当事者の声が私と共に埋もれてしまいます。どうしたらいいんでしょうか。私が死ぬことよりも不安で、私の死は研究対象者の「自分たちの声を活かしてほしい」と話してくれた方々への裏切りではないかと、頭を抱えてます。科研費研究を始めてから、私を慕って一緒に研究したいと学びに来てくれる学生さんが数名現れましたが、まだ彼女たちは学生さんだし、私だからと話してくれた方々のインタビューデータを預けられるほどの信頼を研究対象者から得られないし…。
あと1ヶ月は短すぎます。苦しくてもいいので、生きていさえすれば投稿もできるから、何とか延命しないと。私はまだまだ伝えないといけないのに、悔しいです。
2021年4月22日に入澤さんから受け取ったメールには、次のように書かれていた。
先生にはいち早くお知らせすべきだったのに、先月末に新たな脳転移をサイバーナイフで対処してから体調が悪くて連絡が遅れました。
例の議連での話題提供を受けて、4月16日の読売新聞の三面で、社会部の記事になりました。医療部も取材をしていたのですが、社会部が先に記事にしてくれました。担当のDさんは記者としてもとても信用出来る方で、この記事から連載に繋げたいとおっしゃってます。
また昨日は順天堂の非常勤助教として、初めてのオンライン授業でした。保健医療学部でリハビリ職を目指す学生さんが対象でしたが、最初の60分は普通に終末期医療の倫理の授業して、後半の30分のケーススタディで私の症例を使い、ケースは私の実体験だとカムアウトをしました。学生さんはびっくりしてたようですが、末期がんでも授業をしていたことに色々な想いを持って頂けたようです。学生さんは3年の実習前の時期ですが、がんにリハビリがあることすら知らない人が8割以上でした。がんリハは人手が足りてないし、専攻してくれる人がいたら嬉しいです。
抗がん剤の方は第2クールが終わり、今日が効果判定です。さっきCTを受けて、今結果を待ってます。
私からも同日に、次のメールを送った。
パソコンのメールボックスを開けたらあなたからのメールが目に飛び込んできました。4月になって、入澤さんの助教の件はどうなっていらっしゃるのだろうと思っておりましただけに、喜び勇んで早速にメールを開きました。厳しい闘病生活を続けながらも、順天堂での助教としての講義も、しっかりと始められていたのですね。とても嬉しいニュースでした。オンライン授業とはいえ、体には大変な負担であったのではないかと心配ですが、生きている意義を実感できるという点で、闘病の闘志がいっそう沸いてくるのではないかと、そちらのプラス面に期待しています。
また、あなたの問題提起が新聞記者の注意も喚起しておられるよう で、記事を拝見し、とても嬉しく思いました。彼女の記事はさらに多くの人々の関心を呼ぶに違いありません。
この世でなすべき使命がまだまだ沢山あるのですから、病気に負けてなんかいられません。よい結果がでることを切に祈っております。
入澤さんとの間では、2021年8月中旬にも、第8回釧路生命倫理フォーラムの案内に関連したメールのやりとりがあった。このフォーラムについては、入澤さんは、次のように述べていた。「昨年は司会と話題提供者の両方を務めましたが、今年はRTDが3時間半と長く、博士課程の若手に業績のチャンスを渡すためにも(←私も若手のはずなのですが、フォーラム4年目になると、学生さんを若いなと思うようになってしまいました、笑)、私は司会に徹することにしました」。
この間の授業については、入澤さんは、「私は前期は順天堂の授業担当が1コマしかありませんでしたが、京都府立医科大学のボランティア講師と帝京大学の外部講師を担当していました」と、意欲的に取り組めた様子を伝えてきてくれた。
闘病生活についての報告部分は、読むだけでも辛くなるほどの内容であった。
私の癌治療はというと、2ヶ月おきに脳MRIを受けていたのですが、5月末に脳転移の増悪が判明して、小脳を中心に癌が無数にある状態になったので、緊急で全脳照射の放射線治療を受けていました。
医師から「海馬も当たってしまうので、記憶に関してはリハビリがいるかもしれない」と聞いていたため、研究に響いてしまうのではないかと心配でしたが、人の顔と名前を新たに覚えにくくなったり、短時間記憶が消えやすく日常生活にメモが必要不可欠になったものの、研究に関する記憶は残って一安心しました。
しかし後遺症が重く、パソコンはおろかスマホ画面でも酔ってしまう状態で、そこに発熱や脳の誤作動によるせん妄等が起きてしまったので、6月、7月は授業の時以外はほとんと寝て過ごしてしまいました。ようやくこうやって、長いメールも打つことが出来ています。
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私は明日がコロナワクチンの接種日で、今週からまた抗がん剤期間に入るのですが、水曜日が宗教学会のシンポジウムの打ち合わせ、木曜日が抗がん剤、金曜日に往診、と今週から月末にかけてはバタバタな治療期間に入ります。家族はゆっくり療養してほしいようですが、脳の治療の後は予定を入れた方がいいと医師からアドバイスを受けました。
その一方で、治療と研究の両立の難しさも感じています。今月の血液検査では腫瘍マーカーが再上昇をしていて、痛みが増していることからも抗がん剤の効き目が下がってきているようです。ですが、標準治療は全てやり尽くしたし、承認予定の新薬も抗がん剤未治療の患者にしか使えず、今の治療以外に他の治療手段がないので、増悪のスピードがゆっくりになるよう祈るしかありません。これからは後遺症や副作用との付き合い方も考える時が来ているみたいです。
今年は9月に宗教学会のシンポジウムに呼ばれていて、11月末の生命倫理学会では私が企画の公募シンポジウムが採択されています。せめてその時まで、ちゃんと仕事をやりきりたいな、と思っています。
私が同日に返信メールを送ると、入澤さんは翌日に、次のように知らせてきてくれた。
私はコロナのワクチンの副反応で熱は出ませんでしたが、消化器系に影響が出てしまって今日の昼までは、食事をしても嘔吐してしまっていました。先程まで宗教学会のシンポジウムの打ち合わせで、明日は抗がん剤です。たまに輸血ギリギリの数値になってしまうので、必死に朝鮮人参と鉄剤のサプリを飲んで、貧血の改善を試みています。
5 おわりに
2022年1月19日の夜、パソコンのメールボックスを開けたら、入澤さんのアドレスからメールが届いていた。一瞬喜んだものの、件名が「入澤仁美の母です。」とあるのに気づき、不安がよきった。
お母様からのご連絡は、やはり、悲しいお知らせであった。「年末から急速に体調が悪くなり、8日に37歳の誕生日を迎えましたが、正月以降食べる事も十分に出来ず、目が見えにくく、手も動かず、言葉も無くし、苦しい中弱音も吐かず、最後迄仁美はモルヒネの鎮静も拒み旅立ってしまいました。・・・コロナなので、葬儀はできず、家族葬を昨日行いました。仁美はピンクのベリーダンスの衣装を着て、花に囲まれて綺麗な寝顔でした」。
「今年も3月、5月と学会の予定を入れて、それまでは生きようと頑張ってきましたが、昨年コロナワクチンを接種してから、腫瘍マーカーが少し上がり、やがて抗がん剤の効き目が弱くなり、10月には脳の再転移が分かり、本人もかなり辛い治療に耐え、もう少し頑張って3月に順天堂で開催される学会を楽しみに励んでいました」。「年末に、更に諦めきれず、治療を探してセカンドオピニオンに行ったり、見た目元気なガン患者でも身体は既に、肝臓だけでなく、肺も進み、骨てん、さらに脳の、小脳が致命的でした。最後迄いい子で、家族思いで、心配かけない様に、辛くても前向きでした」。
「順天堂の助教になり、これから活躍したいと思っていたのに、残念です。・・・・せめて3月末の科研を仕上げたかったと思います。兵庫医大から順天堂に科研を移してから、1度も順天堂に行くこと無く亡くなってしまいました。携帯に残っている仁美のメールを見ながら、寂しく、辛く、何故こんなに頑張ってたのか、もっと甘えて欲しかったです」。
お母様からのメールを拝読しながら、私は涙が止まらなかった。入澤仁美さんは、医者の予想を超えて、37歳の誕生日を過ぎるところまで頑張ったのだ。入澤さんは大きな困難に次々と遭遇したが、決してくじけることなく、前を見続けて最後までしっかりと頑張り続けたのだ。神様がそのような彼女の姿をみて、奇跡を起こして下さるのではないかと私は祈っていた。その祈りは叶わなかったが、難しい病気に直面していただけに、37歳の誕生日まで頑張れただけでも奇跡であったのかもしれない。
入澤仁美さんは、研究や教育を通じて多くの人々に尽くすことができる才能も意欲も人一倍持っていたのに、こんな形で生涯が終わってしまうなんて、薄命としか言いようがない。入澤さんは、どうして乳癌に襲われて、やり残した仕事を山ほど抱えながら、このような辛い最期を迎えなければならなかったのか。
この追悼文を終えるにあたり、上記のアカハラ問題を解決するために私が関係者の方々に送った2018年3月25日付けの手紙の文面を、参考資料として後掲しておくこととする。この手紙は、入澤仁美さんが老成学科研の研究チームから外された全過程において彼女の側に落ち度はまったくなかったことを関係者の方々にお知らせしつつ、入澤さんの研究に対する関係各位のご指導・ご支援をお願いするために、私個人の責任で書いたものであった。そのため、手紙には、上記の目的にとって必要な限りでの客観的事実のみを記すに止めた。
しかし、私と知人が二人がかりで幾晩も徹夜せんばかりにして入澤さんから聞き出した事実関係は、感情的なものや情動的なものまで含めれば、若い女性の心身を極めて深く傷つけるものであったと言わざるをえない。その醜さ、酷さを鑑みれば、入澤さんがそれを堪え忍んだ苦しみが乳癌の発病の引き金になった可能性も否定できないように思われる。少なくとも、B教授が私を面会強要罪で刑事告発すると脅したことと比較するならば、B教授の入澤仁美さんに対する言動を不法行為として提訴し、請求損害賠償額に乳癌で命を奪われたことによる損害を含めることは、決して不条理とは言えないであろう。
医学界であれ、どの学界であれ、セクシャル・ハラスメントやアカデミック・ハラスメントの撲減に向けて、どなたにもさらに真剣に取り組んでいただきたい。「セクハラやアカハラ的言動を平気でするような者は決して許さない」という意識を、大勢の関係者が強く共有するような学界であってほしい。
入澤仁美さんには、もっともっと長く生きて、神様から託された医学研究者・教育者としての使命を完遂してもらいたかった。残念でならない。悲しみに堪えない。
入澤仁美さんのご冥福を心よりお祈りします。
合掌
参考資料
2018年3月25日
科学研究費基盤研究費(B)補助金事業「『老成学』の基盤構築」
研究代表者:B教授(A 大学医学部)の研究協力者・研究事務局担当から入澤仁美さんが外れた事実のお知らせ
表題の科研 研究分担者 各位
表題の科研 関係者 各位
名古屋大学 名誉教授 浜田道代
(1)皆様へのお知らせ
入澤仁美さんは、2016年3月以来、表題の科研(以下、老成学科研と表記します。)において、研究協力者の立場で、研究に邁進してこられました。また、老成学科研事務局担当としても、刺激あふれる機会を皆様と共にさせていただくのを、とても喜んでおられました。
しかし、2017年6月14日をもって、入澤さんは老成学科研から外れました。同日付文書により、B教授から「今後入澤さんとは、研究協力や共同研究を含めて一切の研究活動でご一緒することはできない」旨の通告を受けたためです。
(2)この「お知らせ」が、浜田道代からであることのご説明
入澤さんが老成学科研チームから外れた事実は、関係者の皆様に対し、当事者から(例えば B教授と入澤さんの連名の文書で)ご案内するのが通常であろうと思われます。ところが、今はこうして、浜田道代がこの事実を皆様にお知らせいたしております。
私、浜田道代は、入澤仁美さんを、名古屋大学法科大学院で教えました。私は若い頃に、女性であっても研究者・教育者の道を歩みたいと考え、名大在学中に司法試験に合格しましたが大学院に進み、その後も名古屋大学において助手2年間、助教授11年間、教授として24年間を過ごしました。2009年春には、内閣から推されて国会承認のもと、公正取引委員会委員に就任し、競争法の執行や競争政策推進の業務に5年間携わりました。
法科大学院生時代の入澤さんは、元気溢れる頑張り屋さんで、発想力豊かに溌剌と物事に取り組む姿が印象的でした。私が名大を離れて霞ヶ関に移った後、彼女は大病を患い、医療の道で研究者を目指すことにしたというものですから、私も現在に至るまで彼女に度々会っては、その志を励ましてきました。そうこうするうち、最近になって、入澤さんが老成学科研から放逐され、苦境に陥っていることを知りました。
入澤さんが B教授から受けた仕打ちは、私のこれまでの経験に照らせば、研究者を目指して努力している若い女性に対するアカデミック・ハラスメントであると判断せざるをえません。大学において、あってはならないことです。研究者の道を選んできた先輩女性として、これを黙って見過ごすことはできないとの思いから、この文書を書いております。この思いを皆様にご理解いただければ幸いです。
以下、入澤さんとB教授の間に生じた問題の概略を、老成学科研の関係者の皆様にご説明させていただきます。
入澤さんを苦しめてきた原因は、二つあります。
一つには、2017年5月17日に、匿名のメールが4通、入澤さんに送られてきました。メールの文面から、悪意ある者が入澤さんの全メールを長期間監視しており、入澤さんの個人情報である住所や経歴等も把握したうえで、このメールによる襲撃に及んだことが窺われました。入澤さんはストーカーに付け狙われているとの恐怖心を抱き、当日はショックで倒れ込みました。その後も長らく PTSDに悩まされ、医者の診察を受け続けておられます。最近になってようやく、動悸症状などが出ても薬に頼らずに回復を待つよう努力するところまで立ち直ってこられました。
この匿名のメールは、B教授名義のGmailアドレスを用いて送られてきました。入澤さんがB教授に問い合わせると、B教授は、「科研のHPの更新を頼みたいと思って、パソコンを貸与している人がいる」等々と伝えられましたが、匿名者が誰かについては「私に近い人です」としか答えられませんでした。匿名者が判明したのは、5月19日でした。警察がB教授と電話で話していた折りに、B教授が当人に電話を代わったからです。メールの発信人は、B教授の下で12年間研究生を務めてきたCさんでした。
入澤さんを苦しめてきたもう一つの原因は、B教授が代理人弁護士を介して入澤さんに送られた 2017年6月14日付けの文書です。
B教授は、その文書で、Cさんのメールが入澤さんに大きなショックを与えたことを謝罪されました。(ちなみに、Cさんは「絶対に謝らない。」と言ったそうです。5月19日に警察と電話で話していた折に、B教授がその旨を伝えられました。)
ところが B教授は、その同じ文書で、「今後入澤さんとは、研究協力や共同研究を含めて一切の研究活動でご一緒することはできない」旨を通告されました。この突然の首切りは、入澤さんに、Cさんからのメール襲撃事件に勝るとも劣らないほどのショックを与えました。
さらに加えて、B教授は、同文書で、「私を含め、他の研究者のアイディア、分析・解析方法、データ、研究成果や論文又は用語等を利用して発表などをされる際には、当該研究者の了解を得たうえで引用元を明示するようにしてください。」と指示されました(以下、「引用指示」と表記します。)。この「引用指示」ゆえに、入澤さんはその後の研究活動において、すっかり萎縮してしまわれました。
浜田は、「引用指示」を入澤さんから聞き及び、驚きました。他の研究者の公表論文等を踏まえつつ自分の研究を展開する場合に、引用元を明示することは、研究者として当然です。しかし、「当該研究者の了解を得る」よう求めることは、不当な桎梏としか言いようがありません。浜田は、この「引用指示」は無効であるから無視するようにと言って、彼女を励ましています。
著作権法32条1項は、次のように定めています。「公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。」
また、日本学術振興会編「科学の健全な発展のために」においても、次のように明示されています。「他人の著作物を『引用』する場合」は、「正当な方法で行う限り了解を得る必要はありません。」
入澤さんは、2017年5月17日のメール襲撃事件が生じる前に、引用不備の指摘を B教授から受けたことはありません。ただし、次の事実はありました。
入澤さんは、2017年3月11日に、B教授の了承のもと、「縮小社会研究会」第39回研究会で「縮小社会における老成学の必要性」と題する講演をしました。そうしましたところ、それを聴いて下さった内海博司京大名誉教授から、「いのちの科学」での特別講演と論文の寄稿を依頼されました。そこで、B教授にその可否を尋ねますと、「予め検閲します(笑)。」という返事が届きました。
4月29日と決まったその特別講演に際しては、B教授は次の指示をしてこられました。「科研費研究の場合、その旨を講演や論文に掲載するのが決まりとなっています。以下の事項をたいていは最初か最後のスライドを入れてください。科学研究費 基盤(B)特設分野 ネオ・ジェロントロジー、研究課題番号 15KT0005、研究課題名 <老成学>の基盤構築–<媒介的共助>による持続可能社会をめさして、平成27~30年度、研究代表者B教授(A大学)よろしくお願いします。」 入澤さんは、その指示に従いました。
浜田の理解によれば、基盤研究(B)の「研究費使用ルール」において、研究代表者及び研究分担者は補助事業の成果を発表する際に、謝辞に科研費の交付を受けて行った研究の成果であることを記載しなければならない旨が定められています。つまり、科研費研究である旨を講演や論文に掲載する「決まり」は、研究協力者には及んでおりません。
上記のメール襲撃事件の後である5月30日、「縮小社会研究会」の事務局に、突然、B教授からメールが届きました。B教授は、入澤さんの 3月11日の講演のスライドとユーチューブにアップされていた講演動画を削除するよう求めました。「縮小社会研究会」の事務局は、当日中に、スライドと動画URLをホームページから削除しました。6月になって、B教授は、「ホームページからは消えているものの、『老成学』で検索すると、まだスライドが出てくる」と、代理人弁護士を通して指摘されたため、事務局はホームページのサーバーに残っていた資料の削除も行いました。
その後も8月に、B教授は、「縮小社会研究会」のメンバーの方に、「8枚あったスライドのうち、5枚は自分のアイディアで、盗用された。」と主張されたようです。そのメンバーの方は、「入澤さんの話はベリーダンスや岐阜での研究の話がメインであり、写真を公開にするとプライバシーの問題があるから導入部分しか公開されていないだけで、実際に用いられたスライドは30枚近くあり、講演時に『A大学のB教授の唱える老成学について紹介させていただきます』と話したうえでスライドを進めていた。講演映像もアップされているはずだから確認してください。」と反論されたそうです。それでもB教授は、「確かに老成学を使って講演することは許可していたものの、結果的には盗用と同じである。」と主張されたとのことでした。
B教授と入澤さんは、2017年6月以降、双方の弁護士を介して交渉を続けました。交渉途中の 2017年12月1日には、B教授の代理人弁護士が、次の項目を提案しました。「甲(入澤さん。浜田注)は、今後研究発表等で、他の研究者のアイディア、分析・解析方法、データ、研究成果や論文又は用語等を利用する際には、当該研究者の了解を得たうえで引用元を明示するようにすることを約する。とくに、『老成学』の用語については、甲が引用元を全く示さずに発表した経緯を踏まえ、甲は今後この用語を使用しないことを約する。」
この提案がなされた事実からも、B教授の認識のありかが窺われます。入澤さんは、当然ながら、このような項目を含んだ和解を拒絶しました。
(3)この「お知らせ」を、今頃になってお送りしていることのご説明
B教授と入澤さんの間で弁護士を介して進められてきた和解交渉は、最終的に決裂しました。入澤さんの代理人弁護士は、2018年 3月9日に辞任しました。
浜田は、入澤さんのために何をするにしても、それに先立ち、B教授のご見解も伺わなければ、客観的な見方はできないと考えました。そこで、A大学の事務局の方を介して B教授に面会を求めましたが、応じていただけなかったので、B教授が公開されているアドレスに宛ててメールを送りました。そのメールでは、B教授に対し、2017年6月14日の「引用指示」は、現在では撤回するご意向でいらっしゃるのではないかとも尋ねました。
ところが、返ってきたのは、B教授の代理人弁護士からの2018年3月16日付け内容証明郵便(速達)でした。そこには、次のように書かれていました。「仮に貴殿が今後もB氏に直接の面会を求め、メールを送るなどの行為を継続される場合には、B氏といたしましては、貴殿に対し、面会強要禁止の仮処分の申し立てを行うといった対応を行ったり、また、その要求態様によっては、警察に対し、強要罪としての相談を検討せざるを得ません。」
この郵便を受け取ったことで、浜田は、入澤さんがこれまで耐えなければならなかった状況の片鱗を、自らも実体験することができました。B教授の側の言い分を理解しようとする努力はもはやこれまでと観念するに至り、この説明文書を皆様にお送りする次第です。
(4)皆様へのお願い
以上のご説明によりご理解いただけたと存じますが、入澤仁美さんは、老成学科研の研究チームから外れたとはいえ、その全過程において、彼女の側に落ち度はまったくありません。
入澤さんは、老成学科研の一員として手がけてきた研究を、今後は独自に継続する決意をしています。B教授も、「入澤さん自身の着想と人脈で今後も研究活動をなされることについて、心より応援しております。」と言って下さっていますし(2017年6月14日付け文書)、「入澤氏が提案された演劇調査、劇団四季、ベリーダンス等の調査を入澤氏が今後も行われることにつき、当方は全く異存ありません。」と言われております(2017年6月30日付け文書)。「荒川医院、稲垣さんの件について」は、浜田がこの度のメールでB教授のご意向をとりわけて伺いましたところ、「自由に研究していただくことに異存はない」とのお返事が、A大学事務局の方からの伝言の形で、2018年3月15日に返ってまいりました。
老成学科研研究分担者の諸先生及び関係者の皆様におかれましては、老成学科研でご一緒させていただいた時代と変わることなく、入澤仁美さんを今後ともご指導・ご支援下さいますよう、私、浜田道代からもよろしくお願い申し上げます。
敬具